

『私は生きている』
さて、この言葉を聞いて 皆さんどう思われるでしょうか?
そんなこと当たり前だと? 取り立てて言うほどのことでもないと?
この言葉は言霊でしてね、つまり、引き寄せの法則などでは、この世の現実と言うのはその人の意識やその人が語る言葉によって決定されていると言われますよね。
要するに、その人が普段考えている事や感情等の想い、或いはその人が普段喋っている言葉の通りの現実が現れてくるわけですね。
ですから、私達は自分の想いや言葉に無頓着であってはならないと言うことになります。

さて、ではそこで普段、どのような想いや言葉を用いるのが良いのか?と言うことですが、
想いのコントロールと言うものは非常に難しい面もあって、まずは口に出す言葉から と言うことで、よく言われるのが『ありがとう』『感謝します』から始まって、『私にはできる』とか『私は運が良い』『絶対うまくいく』など、肯定的で前向き・積極的な言葉は沢山あります。
その中でも、マニアックで最高のものが『我、神なり』と言う言葉です。
これは、覚者・知花敏彦師もよく言われたお墨付きの言葉で、人々は『神』という言葉の真の意味を理解していない・・・・、だけど、そのような状態であっても『我、神なり』と唱える事は素晴らしい効果をもたらす と言うことなんです。
しかし、最高の言霊である『神』という言葉も、人によっては宗教的に聞こえるし、またあまりにも遠い言葉なのでピンと来ない と言う方も多いかも知れません。

そのような時には、最初に挙げた『私は生きている』 この言霊も素晴らしいものです。
この言葉は当たり前のように聞こえるかも知れませんが、意味をよく理解する必要があります。
『私は生きている』とは、私には生命が宿っている と言うことです。
生命というのは、STAP細胞のブログで書いた素粒子のレベルで言うところの最終レベルである根源意識を指します。
これは、神と同じものであり、愛とも言うし、霊とも言います。
だから、この生命というものは、この大宇宙を想像した張本人であり、過去においても今現在においても、また未来永劫においても この大宇宙のすべてをコントロールし、維持している司令塔です。
ところで、死ぬ とは どういうことでしょうか?
死ぬ とは、この生命が肉体を離れることであります。
人(動物も植物も・・・)は、死ねば、その肉体は動かなくなり腐敗していきます。
しかし、そこから抜けた生命は消滅することはありません。生命は最初からこの宇宙を動かしているエネルギーそのもので、肉体から離れたからと言って、生命そのものには何の変化もありません。
その肉体の中に居た時も、そこから離れた後も、全く同じように宇宙そのものを運行しています。
ただ、その肉体が古くなってしまった為、或いは運命的に(その肉体がこの世に生まれて来る時にあらかじめ神様との間で交わされている約束)その時期が訪れたために、その肉体を脱ぎ捨てただけです。

これを素粒子論的に説明すると、肉体は原子核と電子で出来ていますが、原子核はその場で激しく振動しています。そしてその周囲を電子はものすごいスピードでスピンしています。
それは、そこに原子よりももっともっと精妙で細かい波動とも言うべき生命が宿っているからです。
私は、それを原子のダンスと言ってます。宇宙は原子のダンスであると・・・
飛んだり跳ねたりしてダンスするのが何故楽しいのか? それは、肉体を構成している原子核が既に一瞬一瞬ダンスしているからです。
ダンスで回転するのが何故楽しいのか? それは、肉体を構成している電子が既にスピンしているからです。
生命が離れた肉体は、要するに死んだ肉体は、もう原子核が振動もしていないし、電子もまたスピンしていません。
ですから、形態を維持することができなくなり崩壊(腐敗)して、大気の中に変換されていきます。
従って、肉体もまた消滅したのではありません。
すべては循環していまして、ただ人間の肉眼には粒子が細かすぎてそのレベルの出来事が見えないだけです。
人間と言うのは、この生命が最も複雑でそしてダイナミックに働いている場なのです。
その事を、聖書では、人は神に似せて造られた と謳ってます。
どんな星々よりも、太陽よりも、宇宙のどんな現象よりも、人間(地球人だけでなく宇宙人も)と言うのは、最も高度な神の表現体であります。
だから、『私は生きている』・・・私には生命が宿っている と言う言霊は、私は全知全能であり、この宇宙の全てをコントロールし仕切っている存在、神の表現体である と言うことになります。
このことの意味は絶大です。

が、私達は今までこのような想いで生きて来たでしょうか?
このような自覚をして来たでしょうか?
もし、このような自覚を持っていなかったとすれば、それは 生きている とは言えません。
私達は、今まで 生きてはいませんでした。
地球人は、今まで、生きては来ませんでした。
だから、イエス・キリストは、「この世には死人がゴロゴロしている。私は墓場に居るようなものだ」と言われました。
人間は、この世で人生がうまくいかない と言うことは本来はあり得ないのです。
人生に振り回される と言うことも本来はあり得ないのです。
全知全能で、宇宙のすべてをコントロ−ルしている生命(神)そのものなのに、うまくいかない なんてことは金輪際あり得ません。
では、何故 俺の人生はこんなに思い通りにならないのか? と、言いたくなりますよね。
その理由としては、まず 自分には全知全能の生命が宿っている と言う自覚が無い ということはあると思います。
人は漫然とした想いで生きていて、この世のことしか頭に無く、生命などの見えない世界(エネルギーの高い世界)に対する理解も知識も無いために、その粗雑な想いがそのまま人生に現れてしまう と言うことです。
そしてもう一つは、既に完全に為ってるんだけど、自分では不完全だと思っている と言うこともあるような気がします。

私の霊的探求の知人の中に、足が悪くて車イスに乗っている女性が居ます。
人が完全であるならば、どうしてこのような状態になるのか?と言う事になるかも知れませんね。
そしてやはりその人も、「私は、完全な生命を宿しているのに、神なのに どうしてこんな足なのか? 私の足は治るのでしょうか?」と、覚者・上江洲義秀師に質問されたことがあります。
その時の上江洲義秀師の答えは、こうでした
「あなたのその足が治るか治らないかは、あなかがこの世に生まれて来る時に神様と約束をして来ている。その時の約束がどのような内容だったか による。
私は、その時の約束の内容を、今、あなたに告げるような野暮の事はしない。そんなことをしたら、折角のあなたの人生の醍醐味が失われてしまうから」
要するにこの女性は、この世に生まれて来る時に、神様と、足が悪くなって車イスを使うような境遇になる と言う約束をして来た というのです。
何故そんな約束をして来たのか? 或いは、いつ治るのか? については、人々には伏せられていて(約束を交わした時の記憶が伏せられていて)、思い出すことが出来ません。
しかし、魂の奥底ではちゃんと理解しているようです。
たとえ車イスの状態であっても、それはそれとして生命は完璧な状態として働いている と言うことになります。
ただ、私達は、『私は生きている』『私には生命が宿っている』と言うことの本当の理解が無い限り、この世は苦痛の連続であると言えます。
楽しいことがあったと思えば、その日の夜にはもう辛いことだらけ・・・・
このような人生になってしまいます。
しかし、生命の自覚、『私は生きている』との意味をしっかりと理解したできた暁には、人生に何が起ころうと、その事を楽しむことが出来るようになります。
例えば、もし、あなたが破産したとしたら、破産したことを楽しめるようになる と言うことです。
その状態を【悟り】と言います。
悟れば、神様と交わして来た約束もすべて思い出されます。
その時には、感謝の念がほとばしるでしょう。
『私は生きている』この言葉は。毎日毎日、一日の中にも何回も、口に出して唱えたい言霊です。
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素敵なことば!
こんなこと力強く言える人って、言える時って幸せ!!
私は生きている
今唱えてみて、力が湧いてくる気がしました。
「俺は生きている」
かつて片想いしていて、その気持ちが叶わなかった時、そう笑顔と共に呟いたことがあります。
叶う、叶わない に関係なく。
恋をする。
その時に「生きる」ということを充実感と
ともに感じました。
この言葉を唱える時、頭の中のイメージとしては宇宙空間に漲っている命の炎がそのまま自分の中にも漲っている と言うイメージをされると良いと思います。
毎日、何回も声に出して下さい。
やっぱり、この言葉には強くって明るい言霊が宿ってますね!
仰ったイメージをして唱えてみると、宇宙に漲るエネルギーが自分に宿ると言うか、エネルギーとつながる気がします。
ありがとうございます。
私は生きている!の方が自分にとっては違和感なく言えますね^ ^
ありがとうございます。